二次元の上に三次元が降りてきたらどうなるのか

言葉に大した意味はないので各々が感じた様に解釈し考えてほしいのだが、例えば先天的に盲目で光を知らない人が光を知れる不可逆的状態に置かれれば、光の無かった頃と同じ状態を知覚しようと積極的に思う機会は無くなっていき、いつか忘れ、思い出すのは困難になっていく。世界が全て三次元で構成されているとするならば、紙上に書かれた文字すらも空間が形成されていなければ存在は出来ない。ならば二次元は現実に実在せず脳内にのみ描き出される虚像として存在を許されるのだから恒久的に在ることは出来ず、自分の頭の中の像であるところの二次元は自分が死んでしまえばいずれ潰えて消えてしまうのではないか。自分の中のその二次元を現実に在るものとして体現しようとする術が絵画やデザインや写真や映像等といった芸術的手法に類されるものだ*1。印刷しない限りデータとしてしか存在できないこの文章なども二次元と呼べるのではないかと問えば、データが記録されている媒体が何処かに存在している筈であるからそれすらも三次元と呼ぶことが出来るとも言える。実像が在っても、見たときの印象は個々によって違うのだから他人が概念としてのイメージを共有することは可能だとしても明確なイメージが自分と他人との間に障壁なく統合されることは不可能だと言えよう。二次元は意識の一部であり三次元は肉体である。肉体は灰や骨に変化するがほぼ永続的に残る。人間がいる限りあらゆる二次元が消えることはないが、自分が死ぬときに自分の中の幾つかの二次元は失われるのだろう。なんて思ってるのは単に僕の意見であるし真の解は知れず。そもそも結論が曖昧だ。
一人で考えるよりと上記の俗っぽくない2次元や3次元について論じ合ってみたのだけれど、相手が疲れ果てて寝てしまったのであった。考え出すと混乱する。

飽きてきてこないだ買ったBREaTH(雑誌)のバックナンバーを読んでいたのだが、そこに藤君が似てないけど似た話をしていたのだった。それは宇宙の話なんだけれど、

二次元の世界の上に三次元の円錐が降りてきたらどうなるかっていう質問を増川にしたら、"なくなるんじゃねーのか"って増川が言ったから、あ、コイツとは話せるなと思ったんですよ。

というもの。

僕はそもそも世界が三次元として構成されていると定義したし自分が居る位置も世界に含まれているので前提が論じてた話と違うのだけれど、同じだとしても論拠とか一切記されてないので混乱は増すばかり。

*1:芸術か否かは主観的であり単純に記録としての写真や映像が存在するのだからこの言葉は不適切かもしれない。写真や映像に関しては現実の空間を切り取って残しているという風にも考えられるので、意図されず偶然撮られた作品も多くあるのだろうし