• 20:33 慚愧に堪えません

他人から心配を受けるのは随分と厄介なもので、心配の種が自分にあるのだという脅迫(寧ろ「強迫」か?)めいた疑念だけで、種は萌芽する。

つまりは、心配性の人と一緒に居ると自分まで不安にさせられるので良くない。忘れていたものまで思い出させられるので良くない。って事だ。

母親は心配性が服を着た様な人なので、大概はコンロの火を消したか鍵を締めたか、という小さなものだが、幼少の頃は特に病弱だった俺はよく心配された。

この手の心配は子供の内は良い(度を過ぎた親は過保護だと思わない事もない)が、中学にあがる頃になると正直、鬱陶しくなってきた。俺は自分の意見を口にしないのが優しさだと勘違いしていたので、母親は気付かなかっただろう。第一、足蹴にすると後が更に酷い(心配を越して監視されて息苦しさを感じる)ので、扱いが難しかった。

それでも大きくなるにつれ、対処する術が自然に身に付いた。不安を聞いて一緒に不安になると不安は増幅してしまう。だから、楽天家になってみせるのだ。道化として振る舞うのだ。そうやって暮らした。すると母親の心配性も影を潜め、俺も拘束から逃れられた。未だに他人に見られていると落ち着かないのはこの所為だと思っている。さて、自分の生活の全ては芝居がかっており、何処で幕を下ろしたら良いのか、アドリブはどれくらいすれば良いのだろう、なんて自身を操縦しながら模索する日々を経て、そうこうして、息をする様に嘘が吐けるようになった。ぼろが出ないように必要ないものまであらゆる知識を詰め込んだ。

しかし、この方法は長く続かなかった。一人でストレスも文句も全部溜め込むには余りにも俺はちっぽけだった。矮小だった。このやり方は間違っていた。俺は、車道に飛び出したカエルよりも容易く潰れた。俺は、口が悪くなった。事ある毎に罵った。自分に非があっても、人に擦り付けて知らない振りをした。自分に真に友達と呼べる存在が居ないと気付いたのはこの頃だった。

中学二年だったろうか、あの頃、好きな人がいた。俺は付き合うと言うのが何をすればいいのか知らなかった。悲しい事に現在も余り解ってないという実情だが。片想いというのは、してる内が良くて、両想いになると何をしたら良いのかさっぱりだった。この時の俺の行動力、生活範囲は自分の街だけで、電車は疎かバスにすら自分一人で乗った例も無い世間知らずだった。こう言うと、バスも通らない田舎の過疎地に住んでたのか、もしくは何処ぞのお坊っちゃんなのか、と勘繰られるかもしれないが残念ながら(幸運な事に)どちらも違う。俺の通う学校は、幼稚園から中学校まで全て家から百歩以内で辿り着けた。自転車すら乗る必要も無かった。遊びに行く機会も無かった。大体、俺は遊びと言われても何をすれば良いのか解らなかった。と言うか何がしたいのかすら解らなかった。別に何もしたくなかった。だから何もしなかった。それだけの事だ。それでも日々は過ぎた。

俺は引っ込み思案な方だったと思う。声を掛けられたら話すけど、自分から話し掛けた記憶は無い。それでも話し掛けてくれる人というのは居て、秘かに好意を寄せた相手だ。この間の同窓会の時にバレバレだったと言われて弱った。その人はクラスが一緒の内はよく話したが、三年になり違うクラスになると話す機会も減った。態々俺に話す為に会いに来る事もないだろうし、気になっていたが、こんなもんだろうと思った。修学旅行を終えた頃、その人が友達と思ってたYと付き合いだしたという噂を聞いた。俺の想いはあっけなく消えた。
こうやって書き出すと気持ち悪いな。吐き気がする。

そんな感じだったのに、愛想を良くする術は心得ていたので、小中高と周りに敵は居なかった。いや、振り返れば、上手く立ち回って逃げてただけとも言えるだろう。俺を人として嫌いな奴を俺は知らなかったが、同様に、俺を好きと言う人も知らなかった。要するに何とも思われてなかったんだろう。寂しい生き方だな、とも思ったが、演じてる自分が幾ら傷付いても、それは本当の俺じゃないから、どうでもよかった。

その内、もっと楽な人の扱い方が解った。不安を口にする人がいたら、一言、大丈夫、を言ってやるだけ*1。それで相手は安心する。そんな簡単な事で済むんだから単純だ。時折、簡単すぎて面倒になる。面倒になって言わなくなると再び不安は破裂寸前まで膨らんで奇怪な行動に出るので、更に面倒だ。こちらとしては、どちらにしろ迷惑にしか思えない。不安の種を作ったのは俺じゃないぞ、勝手に埋めて芽が出たら摘み取らなきゃいけないのか。

自分の感情の波を思い出して吐き出していたら少し泣きたくなった。

  • 23:52 だいじょうぶ

それでも、特別な人というのは居るもので、現在ならそんな嘘も意味を無くしてしまう。と言うのも君に見抜かれてしまうからだけど。

君に向ける「大丈夫」は、他の誰かに適当に言う取って付けた様な大丈夫とは全然別のモノなんだ。
君が炭酸飲料の気泡を見る時や、アイスキャンディやブルーハワイの水色を思い出す時、俺の事を思って少し笑って泣いて寂しくなったりしても、それを聞けば安心できる様な「大丈夫」なんだ。


最近、買いたくて買えなかった昔の曲を探して聴いたりしています。
ChappieeのNEW CHAPPIEEの一曲目、WELCOMING MORNINGはとても御機嫌な歌で、楽しくなります。歌詞を聴く度に君を思ってしまう。

*1:ただ、これは極論であって、その人に対して大丈夫だと言えるだけの根拠と責任を見出してから発言すべきであるという点に留意しなければいけない。